鉄道模型の「モデラー」と「コレクター」に思うこと
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2,3年ほど前のはなしですがとある方のブログで鉄道模型のモデラーとコレクターの事で興味深いことが書かれていたので私も触発されて(笑)書いてみたくなりました。
鉄道模型のブログで長続きしているものを見るとその多くが車両にせよレイアウトにせよ「モデラー(あるいは工作派)」が書いているものが多いと感じます。
この趣味の世界には「モケイ」と「オモチャ」の関係と同様に「モデラー」と「コレクター」の間に横たわる「無限のグレーゾーン(笑)」が存在しています。
日本の鉄道模型の場合、16番メインだった時代はかなりのファンが「モデラー」の要素が大きかったと思います。当時のTMSも殆どが工作記事でしたし、「模型と工作」「子供の科学」後には「模型とラジオ」といったビギナー向けの模型誌も導入材として機能していました。
この流れが変わってきたのは昭和50年代初頭の「とれいん」で外国型モデルのコレクションの楽しみが紹介されはじめたことがきっかけとなっている気がします。
更に90年代辺りから16番より安価に完成品を入手できるNゲージの普及に伴う種類の充実もこの流れを後押ししていると思います。
その結果、「作る」「走らせる」とは別に「集める」と言う要素が鉄道模型の場合でもかなりの勢力を占める様になって来ています。
実際サイズが手頃で集めやすいこと、歴史が他のそれよりも浅いことで「お宝」「レアもの」がそれほど多くない事で始めたての人間でもそれなりに集めやすい要素もあるのでしょう。
ただ、この流れもあまり行き過ぎてしまうとおかしな事になります。
その方のブログでもその辺りで感じられる懸念の一端として「モデルに手を掛けなくなる傾向」の面から懸念を示しておられますが、そこで私が書いたコメントをここでも書かせていただきます。
〜これは「モデラー」というよりも「コレクター」の発想だと思います。
こと日本の鉄道模型ではコレクターの要素が大きくなっているのですが、こうしたジレンマは「モーターを積んでいる模型」ならではではないかと感じます。
昔読んだ水野良太郎氏の鉄道模型の入門書でドイツのファンの言った言葉を思い出しつつ書きます。
「日本製のモデルはよくできているけどあれはコレクター向きだね。走らせるならリバロッシかメルクリンに限るよ」
「コレクターと鉄道模型ファンとは区別すべきだ。全く異質のものだというのが僕の考えだ」
鉄道模型の先進国ではこういう発想がごく自然にできるというのが凄いと当時思いましたが、今もその辺りはあまり変わっていないですね。
ミニカーの趣味もあるので感じますがこちらは純然たるコレクターが多く鉄道模型よりもある意味のどかな所があります。
ミニカーの場合「純粋に集める・飾る事に特化できる」からかもしれません〜
「面倒だし難しいから」と言う理由で完成品を収集する心理も分からなくはありません。
実際面倒ですし(笑)
ですがコレクターであればモデルに手を加えたりはもちろん付属品の装着すら「価値を下げる行為」として禁じ手となる事が多いです。この方向が進みすぎるとモデラーとコレクターの乖離は更に広がり鉄道模型そのものの行き方がおかしくなる危険は感じます。
今でさえ新車を買うときから下取りを考える傾向が現れ始めていますし、改良製品が出ると旧製品がどっと売却される傾向も目立ってきました。そのうち利殖目的の投機商品として鉄道模型が捉えられかねない危険すら孕んでいると思います。
とはいえ、コレクター趣味がそれこそ「骨董」並みに成熟化できるならコレクターも悪くはないと思うのですが。
ここから先は完全に私見となります。
私の場合、コレクションと言うよりもレイアウトの上を走らせる為のアクターとして車両モデルを捉える傾向が強いと思います。
ですので超精密な完成品であろうと(そんなものは持っていないですが)300円で買った40年前のモデルだろうと、或いはものすごく下手に仕上がった改造・自作モデル(大汗)だろうとレイアウトの上では理論上は全く同列の扱いとなります。
当然どの車両も購入後走らせずに仕舞い込まれるという事は殆どなく、レイアウト上を一定期間走ることになるわけです。
つまり私にとってはレイアウトで走らせて初めて「自分のものになった」という感覚を得る事が多いです。その意味で言うなら完成品よりも多少なりとも手を加えたり(それが「義務としての」パーツ装着であっても)したモデルの方が走らせた時の思い入れは大きいと感じます。
(と言いますか、超精密モデルのディテーリングは手にとって愛でる時こそ大いに有効なのですが、レイアウト上で走行させると旧製品と印象があまり変わらない事が多いです。むしろ走行系のメカの性能に依存する「走りの質感」に高級感を感じることが多いです。たった1両ですが「外見は凄いのに走りはまるでだめ」と言うモデルも知っていますが、ディテーリングが少ない事よりもろくに走れない事のほうに「残念」感を感じてしまいます)
「鉄道模型は走らせて華」と言う考えは私の基本ですが(笑)実はこれは「模型」というよりも「オモチャ」のポリシーに近いものです。
その眼で見るとただ飾るだけのモデルにはどうしても食い足りない感じが残るし、自分なりに手を掛けたモデルにはそうでないものよりも愛着を感じやすい傾向があると思えます(例えると自分の子供が運動会で一等をとるのを見る感覚に近いのかもしれません)
この感覚は大事にしていきたいという思いはあります。
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完成品の購入とはいえ、やはり買う以上は自分の惚れ込んだ物を買いたいと思いますし、世間でどんなに人気のある機種であっても自分の琴線に触れない物には手を出さない衿持は持っていたいと思います。
それにしても都会の方では新古品と言うのも結構出回っているというのは凄い話と思います。私の現住地や故郷では間違ってもそういう光景にはお目にかかれないので正直羨ましいです。
それは置いておいて、
実は以前あるSNSでも以前「改造が出来ないからリニューアル品が出たら廃車にしてばらばらにする」と言った意味の書き込みを見た事があります。感覚的にはそれに近いのりで買換え、売却するパターンが多いと言う事なのでしょうか。
それに対する他のメンバーからの意見として「最近は初心者でもこれは儲かるのかと言う基準で模型を買う傾向が見られるがマネーゲームの価値観を模型の世界に持ち込みたくない」と言った意味のものがあり少しほっとした記憶があります。
ですがやはりこれは「モデラー」というよりも「コレクター」的な発想が強くなっていると言う事でもあるのでしょう。
本題に戻ると
上に挙げた様に私のところでは新古品が並ぶ等とは間違ってもない環境ですが、それでも最近は「リニューアル情報や競合メーカーの新製品情報が出た途端に旧モデルや競合モデルの出物が中古屋に並ぶのを僅かながらも見かけるようになりました。
最近だとK社のC●2が出る直前にM社の同形機の出物が並び安価に入線させてもらった事があります。その際に二つを並べて比較した事があるのですが致命的な欠点は特に見つけられませんでした。同じ事はG社とM社のモハ●2とかK社・E社・T社のキハ●0でも経験しています。
私だったら同形機が異なるメーカー、リニューアルで存在しても単純に「バージョン違いがそろった」とか考えて喜んで入線させる事が多い(大体それらが並んでも違和感を感じることは少ないです)のですがそうは考えない向きも多いのでしょう。この辺りはコレクターと言うより走行派に近い考えかもしれません。
近日の事ですが私の好きなある機種が新製品としてリリースされます。実はその機種は既に他メーカーからの先行製品が出ており外見上の欠点が非常に目立つ機種(笑)なのですが、だからと言って直ちにそれを売る気にはならないと思います(収納スペースなどの問題でも出てくれば泣く泣く売るかもしれないですが…と小賢しい予防線を張っておきますw)
重連は無理でしょうが、貨物専用機にするとか入替え用に徹する、あるいは臨港線で余生を過ごすなどの選択肢はあると思います。
ここからはまたまた私見になります。まだ生煮えの論ですが今はご勘弁を
集める・飾るという事だけに徹することが出来るならコレクションも悪くはない方向性だと思います。ただ、鉄道模型は歴史的経緯から行ってそこだけに突っ走るのが難しい側面があります。
というのは、大概の場合、鉄道模型にはモータとギアを内蔵した「半分生もの」という特徴があるからです。これらはいずれは劣化してゆきますし、走行性が新型より良いという事も余りありません。
世界的な趨勢としても鉄道模型が元々「走らせて楽しむ知育玩具」として進化した経緯があるために走行派・工作派の比率も高く利殖目的のコレクターのほうが一部を除いて異端視される傾向がある様です。
コレクターが悪いと言うわけではないのですが、コレクターにはモデラーとは別個の陥穽があります。
ひとつには鉄道模型の骨董化に伴う「利殖目的の買い漁り現象」
これは他のジャンルでは20年前のバブル期でよく見られた現象です。
もうひとつにはいわゆる「フルコンプ症候群」全てを揃える事を優先するあまり自分の気に入っていないものでも買ってしまうと言う心理状態です。
更には「瞬殺症候群」とか「行列症候群(これは私も過去に経験したことがありますw)」なんてのもそうした陥穽に入るかもしれません。
そしてもうひとつ、コレクター特有の精神構造の問題です。
鉄道ではないのですがその辺りを竹熊健太郎氏が「コレクター考・冥府魔道の収集術」と題した一連のブログで書かれた事があります。
初読の時になかなかインパクトを受けた内容でしたが、興味をお持ちの方は検索されると良いと思います。
ここで印象的だったのは「コレクターが精神的なバランスを保つためにはどこかでアウトプットを出さなければならない。それがないといつか精神的に悪いことになる」と言うくだりです。
これがモデラーなら上手下手は置いておいても「作品」を晒す事でアウトプットはかなり満足されると思います。
が、コレクターの場合はコレクションを基にした研究・考察をしたりコレクションをどこかで一堂に展示でもするのでない限りはどこかで「自慢」をしないとバランスが保てない事になります。
自慢話というのは一歩間違うと他者の反感を買いやすい(自戒)ものですがコレクターの場合モデラーに比べて手を使わない(自慢できる技術がないとアウトプットできないと言う思い込みが強い)こともあって、よりそうした危険が高いと思えます。
コレクターにとっては今後「如何に上手に自慢するか、できるか」が大きな課題となるのではないでしょうか。
(最も一部のモデラーのほうも自己満足に陥りやすい閉鎖性、社交性の低さ、嗜好の硬直化という問題を内包している気がするのですが)
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ここまでの文章で鉄道模型と言う対象の特殊性をもとにややコレクターに批判的とも取れる書き方をしてしまったと思います。
ですが私個人はコレクターの本質について悪意を持っている気持ちは全然なくてむしろコレクターにはコレクターなりの楽しみがあると考えています。
そんな事を思う時に常に思い出す随筆が幸田露伴の「骨董(こっとう)」と言う一文です。
例によってこれは青空文庫でも読めるものですので興味をお持ちの向きは一読をお勧めします(今の方なら「新字新かな」のバージョンのほうが幾分読みやすいと思います)
個人的には以下のくだりが特に心に残る部分です(以下引用)
骨董はどう考えてもいろいろの意味で悪いものではない。特に年寄になったり金持になったりしたものには、骨董でもひねくってもらっているのが何より好い。
不老若返り薬などを年寄に用いてもらって、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落(しゃれ)だ。老人には老人相応のオモチャを当あてがって、落ちついて隅の方で高慢(こうまん)の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷(ごきとう)になる。
骨董いじりは実にオツである、イキである、おもしろいに違いない、高尚に違いない、そして有意義に違いない、そして場合によっては個人のため社会のためになる事もあるに違いない。
骨董を買う以上は贋物を買うまいなんぞというそんなケチな事でどうなるものか、古人も死馬の骨を千金で買うとさえいってあるではないか。仇十州の贋筆は凡およそ二十階級ぐらいあるというはなしだが、して見れば二十度贋筆を買いさえすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳はないことだ。
何だって月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買うのは月謝を出すのだから、少しも不当の事ではない。
さて月謝を沢山たくさん出した挙句あげくに、いよいよ真物真筆を大金で買う。
うれしいに違いない、自慢をしてもよいに違いない。嬉しがる、自慢をする。その大金は喜悦(きえつ)税だ、高慢税だ。大金といったって、十円のがまぐちから一円出すのはその人に取って大金だが、千万円のドル箱から一万円出したって五万円出したって、比例をして見ればその人に取って実は大金ではない、些少(さしょう)の喜悦税、高慢税というべきものだ。
そしてその高慢税は所得税などと違って、政府へ納められてどろぼう役人だかも知れない役人の月給などになるのではなく、すぐに骨董屋さんへ廻って世間に流通するのであるからてっとりばやく世間の融通を助けていくらか景気をよくしているのである。
野暮でない、洒落しゃれ切った税というもので〜
骨董のよい物おもしろい物の方が大判(つまり大金)やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券(お金)で高慢税をウンと払って、釉くすりの工合の妙味言うべからざる茶碗なり茶入なり、何によらず見どころのある骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達(のびのびしたの意味)した料簡というものだ。
理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さそうな訳だ。
関西の大富豪で茶道好きだった人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽たのしんで死んでしまった。
一時間が何千円に当った訳だ、なぞとそしる(バカにする)者があるが、それはそしる方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。
趣味の前には百万両だってたばこの煙よりもはかないものにしか思えぬことを会得しない(知らない)からだ。
(一部に意味の補足やかなへの変更を加えてあります)
どうでしょう、ここで取り上げられている「骨董」を「コレクション」と読み替えれば善きコレクターの本質が浮かび上がってこないでしょうか。
「金さえあれば買える・手に入る」と思う感覚からモデリングに比べコレクションを安易なものと捉えている向きが多い事がコレクターに対する偏見(?)を助長している(実際、そういうコレクターが多いであろうことも事実でしょうが)と思えますが、実際には本当に入れ込んだコレクションと言うものにはモデリングとはまた異質の楽しみと苦労があるはずなのです。
この他登場人物の描写を通してコレクターの本質について触れている青空文庫の小説としては岡本軌道の半七捕物帳の一編「正雪の絵馬」、あるいはコナンドイルのシャーロックホームズ譚のひとつ「三人ガリデブ」等がありそれぞれに考えさせられるところもあります(笑)
実際にはこういう題材の小説や随筆はもっともっとあるとは思いますが私の印象に残るのがこれくらいということで勘弁してください。