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鉄道模型車両の工作に思うこと
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今回は先日のマイクロの新カタログを見ていてふと感じたことから。

 マイクロに限らず、最近のNのラインナップの充実度はものすごいものがあります。
 これだけラインナップが充実しすぎると欲しい編成がすぐ製品化されてしまい「作る楽しみ・喜び」を感じなくなるのではないかという論をよく耳にします。
 実際私もそうした危惧を感じないではないのですが、その一方で「作る」という行為に対する誤解もあるのではないかとも思えます。

 最近良く目にする「なければ作る」というのは耳触りは良いですし、説得力もあります。
 ですがそれは裏を返せば「あったら作らない」と言う事でもあります。それではこの世界に関して工作と言う行為は単なる「隙間探し」と変わらなくなるのではないでしょうか。
(じつはこれは鉄道模型に限らず最近の「モノ作り」衰退の遠因のひとつではないかと私自身は考えています。隙間探しばかりでは骨太な思想は育たないと思いますし)

 実はこの論は私のオリジナルではありません。
 40年以上前、TOMIXやユニトラックなど影も形もなかった頃(当然16番・HO中心だった時期)のTMSのミキストの論でもあるのです。

 と同時に当時の有名なレイアウト本の記事で「○○号の編成は何度か自作に挑戦しているのですがなかなか思う様なものができません。こうなってくると『××社の●●系と言う立派な完成品があるのにも拘らず○○号はどうしても自作でとこだわる有様です』いつの日かその思いは達成されるものと思います」という一節があり、こういうのが「趣味としての工作の本質のひとつ」ではないかとも思えていました。

 ですがここで論じられていた事は今でも立派に通用するジレンマと思います。



 私個人、共感する所も多い論でしたが「なければ作る」よりも「あっても作る」と言うのが「趣味としての工作」の本質のひとつではないかと思います。
 そう思えばこれだけの新製品洪水の中にあっても自分を見失わないで済むのではないかと。

 製品より上手く作れればそれに越したことはないのですが、そうでなくとも「自分で作った」という達成感にプライオリティを置く方向はありだと思います。
 つまり「出来の悪い子ほど可愛い」引いては私自身の下手な技量に対する言い訳を再び開陳する事になりますが(超大汗)



 そうした工作のひとつである西武のレッドアローに手を加えていて感じたことから。

 これに限らずカニ2423とかデキ100タイプのショーティ化とか、車両の改造や切り継ぎはこれまでにいくつかやってきました。
 ですがそのたびに感じるのは「自分の腕の無さ」というか「不器用さ」です。
 これでも最初に車両工作を始めた頃に比べれば少しはましになったかもしれませんが、専門誌なんかに出てくる作例を見るとどうしても自己嫌悪ばかりを感じさせられます。

最初は良い道具を揃えればどうにかなるかと考え、ピンセットを始めリュータやらドリルやらをいくつか買ってみたりもしました。
 確かに一定の効果は感じましたが腕の無さをカバーできる程でもなく、むしろ腕そのものの悪さが際立った感じもします。

 経験だけは重ねたせいか、キットの素組みはそれほど怖がらずにやる様にはなりました(笑)
 更にパンタの載せ替えとか、動力の調整辺りならそれでもそこそこ行くのですが切削や切り継ぎが絡んだ工作なんかになると全くからっきしです。

 たとえば「まっすぐに切断する」とか「削りすぎないようにしつつなめらかになるまで表面仕上げをする」といった基本的なところで失敗しているのが大きいようです。
 それと工作全般にあたって何かと性急になりがちな事も関係あるのでしょう。

 そんな訳で勢いアイデア勝負みたいなものが多くなるわけですが(汗)
 


 別に専門誌に載せようとしている訳ではないのですが、市販の車両と並べた時のこれらの加工車両の見ずぼらしさが気になるのです。
 旧製品と現行製品を並べた時と違って仕上げの粗さそのものが目立ってしまうだけに性質が悪い。
 比較する相手が市販の完成品であると言う事はどうしても不利なのですが、現実には完成品と並べる機会がはるかに多いのですから自己嫌悪は避けられない宿命であるとも言えます。

 ところがそれでいて、工作そのものが嫌いになったかと言うと案外そうでもないのです。

 最初のころは「うまくできなければ嫌気がさすのではないか」という不安を持ちながら工作をしていたのですが、出来が悪くても不思議と嫌気がさす所まではいかないのです。
 むしろ無心に工作している間に何か癒されると言うか、ほっとする感じになる時があります。
 仕上がりとは別のところで「何かを作る為に手を動かしている事」それ自体に自分をほっとさせる何かを感じるのです。これは自分でも結構意外な事でした。

 これは「仕事ではない趣味の工作」ならではの事ではないかと言う気もします。ノルマに追われていたらこういう感覚が得られるかどうか疑わしいですし、嫌気ももっと早くさしていると思えます。

 結局、こうやって愚痴を並べてはいても手を動かす事はやめられそうにありません。
 全く性懲りもないですが、ごくわずかでも腕が上がっている事に期待をかけつつこれからも小工作は続けて行く事になりそうです。


 京阪80の動力化とか、昨年手掛けた下津井モハ102の動力化、あるいは夏場の16番のC54のレストアなんかをやっていて思うのですが「完成した車両がきちんと走った時、あるいは走りが今一つだったのがスムーズになった」瞬間の楽しさというか快感が最近癖になりつつあります(笑)

 じっさい、走行系の調整とか、組み直しなんかをやっている時の充実感は自分でも意外に思うほど高いものでしたし、それらが仕上がって車両が走り始めるとそれまでの苦労が報われた気持ちになります。
 体質的なものもあるのでしょうが、やはり私にとって鉄道模型は「飾るもの」ではなく「走らせるもの」であり運転するにしろ走っているのを眺めているにしろ、「動く事」にプライオリティを感じる様です。


 特に旧モデルのレストアなんかがそうですが、買ったばかりの新車がレール上をスムーズに走るのは当たり前ですが、購入時走らないモデルが手を掛ける事で再び走り出すさまは快感を通り越して感動的ですらあります。
 これは初挑戦で組みあがった動力ユニットが初めて動き出した場合でも同様でしょう。

 
 それは車両工作に限らずレイアウトについてもそうで同じ所に設置されただけのストラクチャーやシーナリィも「走行する列車と組み合わされる事で最大限に生き生きしてくる様に思えます(この点では「飾り物」と似ているようですが列車という動的な要素と組み合わされた時に初めて威力を発揮するという点で単純な「飾り物」とは異なる気がします)

 ボディの外回りにパーツを追加して細密化したり行き先表示幕を貼ったりして細密感を上げたり、或いはウェザリングなどで雰囲気を出して行くのものも良いのですがそれらもやはり「走らせて楽しむ」事を前提にした鉄道模型ならではの楽しさではないかという気がします。

 ・・・まあ、そうは言っても現実は「走りが今一つのジャンク中古」とか「動力化に工夫が必要な曲者モデル」の入線が多い事が一番の要因なのですが。
 この辺りの事についてもいずれ改めて書こうかと思います(汗)

 そんな今の私がはまっているテレビ番組はCSのディスカバリーチャンネルでよくやる「復元・クラシックカー」「クラシックカーディーラーズ」「ファスト&ラウド」などの旧車復元・カストマイズ番組だったりします。鉄クズ同然のオールドカーの走りを手間とノウハウをかけて走りを復活させるプロセス(更にはそれを好みのベクトルに再改造したり)が最近の私のモデリングの方向性に近いからでしょう。

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